若き弁護士の謎につつまれた最期...
ジョナサン・ルーナは、ニューヨークでも特に治安の悪いサウス・ブロンクス地区で生まれ育った。
しかし、ジョナサンは道を踏み外す事なく勉強に励み、日常的に犯罪が横行する環境から弁護士までのし上がった。
結婚し、2人の子供も生まれ、絵に描いたようなサクセスストーリーを歩む彼が38歳の時、不可解な事件が起きた。
2003年12月3日。
当時、家族でメリーランド州のボルチモアに住んでいたジョナサンは、午後11:30ごろに仕事を終え裁判所を出た。
しかし彼は自宅に帰らず、誰にも行き先を告げずに車で街を出てしまった。
翌日、12月4日の早朝5:30頃、ジョナサンは4つの州をまたいだペンシルベニア州で遺体となって発見された。
彼は小さなペンナイフで体中を36回も刺され川の中で絶命。すぐそばには夜通し運転していた車が停められていた。
一体、家庭を持つ若き弁護士の身に何がおきたのか?
現場に到着するまでの足取りでわかったのは、裁判所を出て午前1時にデラウェア州のATMで現金を引き出したこと、ETCのある車に乗っていたが現金で道路料金を払っていたこと。
現場では犯人につながる物的証拠や目撃情報は得られなかった。
当初、警察はジョナサンが関わった裁判が原因で誰かの恨みを買い、事件に巻き込まれたと考えた。
ナイフで刺された回数があまりにも多かったからだ。
しかし、ジョナサンの私生活に関して捜査を進めていくと、自殺の可能性が高まってきた。
彼はクレジットカードで多額の負債を抱え、ネット上で愛人を探していたことも明らかとなった。
仕事絡みで殺害されたのか?
それとも、幸せそうな私生活は見せかけで、人生に絶望した末にジョナサンは自らナイフを身体に突き立てて命を絶ったのか?
どちらを裏付ける確たる証拠もなく、今でも事件は未解決のまま...
イタリアの英雄ボテッキアの死
オッタヴィオ・ボテッキアはイタリアの国民的ヒーローだった。
第一次世界大戦の時には活躍が認められて勲章を授かり、戦後は、自転車レースの最高峰ツール・ド・フランスで1924、1925年に2連覇。
ボテッキアはイタリアを代表するアスリートだったが、数年後に事件が起きた。
1927年6月3日。
その日、朝からサイクリングに出かけたボテッキアは、数時間後に、路上で意識を失ってるところを発見された。
第一発見者の農夫の通報でボテッキアは病院へ搬送され、治療を受けたが意識は戻らず、6月14日に亡くなってしまった。
この時、ボテッキアは頭蓋骨にヒビが入っていたため、何らかの理由で頭部を強打したと警察は考えた。
彼が発見された時、乗っていた自転車には全く傷がなく、遺体から離れた場所に放置されていたため、サイクリング中に交通事故に巻き込まれた可能性は低い。
が、有力な手掛かりや目撃者は現れず、捜査は行き詰まってしまった。
ボテッキアの死亡原因にはいくつかの説がある。
ムッソリーニに命を狙われた説 ボテッキアは社会主義者で、当時、ムッソリーニの推し進めていたファシズムとは相容れない思想の持ち主だったため殺害されてしまった説。
マフィアに狙われた説
あるイタリア人がニューヨークで事件に巻き込まれた際、マフィアからの依頼でボテッキアを襲ったと証言したという説。
どちらも憶測の域を出ないが、ボテッキアの死から数年後、第一発見者の農夫が当時のことを証言したそうだ。
第1発見者の農夫犯人説
最初に倒れているボテッキアを発見した農夫は、病に倒れベッドの中で、こう言い残した。
「あの時、私は勝手に畑のぶどうを食べている男を発見した。警告するため石を投げると、それは男に命中してしまった。すぐに駆け寄った時、私は、彼が何者か初めて気づいた。パニックになった私は、彼を道路脇まで引きずって、その後に通報したんだ。神よ、お許し下さい...」
この農夫の告白が真実なのか定かではない。