イタリアの英雄ボテッキアの死
オッタヴィオ・ボテッキアはイタリアの国民的ヒーローだった。
第一次世界大戦の時には活躍が認められて勲章を授かり、戦後は、自転車レースの最高峰ツール・ド・フランスで1924、1925年に2連覇。
ボテッキアはイタリアを代表するアスリートだったが、数年後に事件が起きた。
1927年6月3日。
その日、朝からサイクリングに出かけたボテッキアは、数時間後に、路上で意識を失ってるところを発見された。
第一発見者の農夫の通報でボテッキアは病院へ搬送され、治療を受けたが意識は戻らず、6月14日に亡くなってしまった。
この時、ボテッキアは頭蓋骨にヒビが入っていたため、何らかの理由で頭部を強打したと警察は考えた。
彼が発見された時、乗っていた自転車には全く傷がなく、遺体から離れた場所に放置されていたため、サイクリング中に交通事故に巻き込まれた可能性は低い。
が、有力な手掛かりや目撃者は現れず、捜査は行き詰まってしまった。
ボテッキアの死亡原因にはいくつかの説がある。
ムッソリーニに命を狙われた説
ボテッキアは社会主義者で、当時、ムッソリーニの推し進めていたファシズムとは相容れない思想の持ち主だったため殺害されてしまった説。
マフィアに狙われた説
あるイタリア人がニューヨークで事件に巻き込まれた際、マフィアからの依頼でボテッキアを襲ったと証言したという説。
どちらも憶測の域を出ないが、ボテッキアの死から数年後、第一発見者の農夫が当時のことを証言したそうだ。
第1発見者の農夫犯人説
最初に倒れているボテッキアを発見した農夫は、病に倒れベッドの中で、こう言い残した。
あの時、私は勝手に畑のぶどうを食べている男を発見した。
警告するため石を投げると、それは男に命中してしまった。
すぐに駆け寄った時、私は、彼が何者か初めて気づいた。
パニックになった私は、彼を道路脇まで引きずって、その後に通報したんだ。
神よ、お許し下さい...
この農夫の告白が本当なのか定かではない。
無罪判決は正しかったのか?
1977年4月。
オクラホマ州のキャンプ場で、ガールスカウトの少女たちがテントを張って宿泊していた時、不気味な出来事がおきた。
カウンセラーとして参加していた女性のテントが何者かに荒らされ、ドーナツが盗まれていた。
さらに、テントの中には不気味なメモが...
「近いうちに三人の女の子が、このキャンプ場で殺されるだろう」
カウンセラーは同僚に相談したが、イタズラだと結論づけてしまった。
2ヶ月後の6月12日。
悪夢のような事件が起こった。
その日もキャンプ場ではガールスカウトが行われていたが、夜になると激しい雷雨が降り注いだ。
翌朝、シャワーに行こうとしたカウンセラーが、ガールスカウトに参加していた8〜10歳の少女3人が寝袋に入ったまま殺されているのを発見。
3人の遺体はテントから150m離れた場所に放置されていた…
この事件の捜査にあたった警察は犯人に心当たりがあった。
それは当時、刑務所から脱走し指名手配されていた34歳のジーン・ルロイ・ハートという男。
いくつもの前科がある札付きの悪で、キャンプ場周辺の地理も熟知していた。
警察はすぐにジーンを指名手配。
なかなか発見にいたらなかったが、翌年の4月にジーンは逮捕された。
彼は、事件が発生した地域の森に点在する洞窟を根城にして、居場所がバレないよう複数の拠点を移動しながら生活していたのだった。
その後の捜査で、ジーンが生活していた洞窟からは、カウンセラーが所有していたサングラスが発見され、現場に残されていた足跡も一致した。
さらに、洞窟には不気味なメッセージが刻まれていた。
殺人鬼はここにいる あばよ愚か者ども 1977年6月17日
この日付は、少女たちが遺体で発見された4日後を指していた。
その後、殺人罪で裁判にかけられたジーンだが、結果は証拠不十分で無罪。
脱走の罪では収監されたが、結局、1979年に心臓発作を起こし医療刑務所でこの世を去った。
果たして、容疑者は本当に無罪だったのか?
事件から40年が経過したが、真相は明らかになっていない。